学術本のプロポーザル作成過程: (1) 忘却
アメリカではよく「良い博論とは書き終えることがきでた博論だ。」と言いますが、自分含めた周囲では7-8年かけて(最近は変わりつつあります)博士課程を生き抜いて書き終えるような中、途中で進路を変えたりせず書き上げたこと自体に意義があることを評した言葉です。言い換えれば、博士論文が既に出版可能に近いような例を除いたら、博論を本として出版するまでにさらなる苦労を示唆したものでもあり。今回から、学術本を米国などの大学出版局から出版するまでの第一関門として、本のプロポーザルが挙げられます。それについて、いくつかの回に分けてその過程を説明したいと思います。前提として、ここでは博士論文を改定して出版することを念頭においていますが、もしかしたら二冊目以降等にも意味があるとしたら嬉しいです。第一回は良い意味で「忘れる」ことです。
自分にとっては少しでも博論から知的にも感情的にも離れることが良かったと思っています。自分の博論は日本植民地時代の台湾の家族の変化と法廷の対応について書かれたものでした。当時、自分はより法社会史・家族史に興味があって、それを台湾と植民地法という観点から新たに利用可能になった総督府法院の史料から分析したものです。書き上げた当時は時間をかけていた関係もあり、もちろん好きでした。ただ、次回以降の出版局の興味やどの出版局にアプローチするかの問題で触れるのですが、後々思うと出版局や将来の読者に向かって興味が湧くようなものではなかった、ということです。つまり、少し周りが見えていなかったということです。
そのような状況の中、シカゴ大学8年目の就活の際にニューヨーク州立のビンガムトン大学 (BU)とJournal of Women’s Historyが共同で募った1年間のポスドク・そして同大学のアジア・アジア系アメリカ学科でさらにもう一年教職の仕事を得ました。このことは良くも悪くも博論から距離を置くことに繋がりました。BUの二年間は本格的に自分の授業を持って教えるということで、研究以上に教務のことに専念することが多かったからです。加えて、毎年就活をする必要があったので、9-12月は資料の準備などでものすごくエネルギーを使ったからです。そうした状況のなかで、例えばカバーレター(履歴書に書かれたことを自分の言葉に変えて売り込む2ページのステートメント)でどうすれば東アジア史が専門外の採用担当者に興味を持ってもらえるかを考えるようになります。つまり、間接的に博論をどのように再デザインするのかという問題に取り組むことになります。そうした中、上記のポジションや教務の内容を経過するなかで台湾史や法社会史を全面に据えるのではなくて、「ジェンダー」を中心に据えたほうが良いのではないかと思うようになりました。というのも、今ではそこまで流行したテーマ(環境史など)ではないですが、それでも根源的に、継続的に現代社会に通じる問題ではありますし、博論を改定するために重要な分析の指針になると思ったからです。
以上のような過程は2つの面で難しい点があり、お勧めできるかわかりません。1つ目は博士課程後、即助教の仕事に就けたとすると、昇進まで限られた時間の中で改定する必要があります。一冊以上の出版を求められるところは言うまでもないです。2つ目は、自分のように毎年就活して1年1年繋げていく(2018年まで続く)のは精神的にも経済的にも厳しいので、そもそも一度博論から離れて考え直すみたいな余裕がないからです。自分は幸いにもなんとかこれを3年間続けて、少しでも客観的に自分の書いたものを捉え直し、各章を書き直すという作業に向かうことができたのですが、一般化できるとは思いません。その時間的・心理的・経済的余裕をどのように確保できるかが、プロポーザルを書く以前の段階で問われていると思います。